やわらかな毛糸が、少年の手の中で瞬く間に形をなしてゆく。
「見て、ハシゴだよ。それからこうすると…ほら、タワー」
少年がにっこりと微笑む。
「まあ本当。すごいわ」
少女は感心し、つられて微笑んだ。
また昔の夢だわ…。
日曜の午後。リビングのソファーで目を覚ました静香は、どこか虚しい気持ちで頭を振った。立ち上がって伸びをし、掃除機のスイッチを入れて笑顔を作る。
「いけない、掃除の途中だったわね」
幼馴染だったのび太と結婚して10年。子宝には恵まれなかったが、安定して不自由の無い生活だった。何をやっても駄目だったのび太が、静香と結婚してからは別人のように変わり、仕事に打ち込み業績を伸ばし、若くして出世した。おかげで静香は今、立地のいい都内のマンションに住み、上品な家具と綺麗な洋服やアクセサリーに囲まれて過ごしている。不満は無い。むしろ少し贅沢だとさえ思う。
そう、恵まれた生活だわ。だけど――
掃除の手を止め、静香は溜息をついた。今日ものび太は仕事で出かけている。出世に伴いのび太の忙しさは増した。毎晩の残業、珍しくない休日出勤。帰ってくればシャワーを浴びてすぐに寝てしまう。最後にきちんと会話をしたのがいつだったのか静香には思い出せない。物質的には恵まれているが、家庭の温度は確実に下がっていた。
掃除機をかけ終えた静香は壁際に目をやった。サイドボードの上に飾られた写真の中では、青空の広がる空き地で少年と少女が無邪気に笑っている。
「野比さん、今度の会議の件なんですが」
部下が書類を手にやってくる。普段と変わらず騒がしい日曜のオフィス。月末の定例会議が一週間早まり、それぞれ準備に追われていた。部下に指示を出しながら、のび太も自分の仕事を急ぐ。
仕事に打ち込めば打ち込むほど、それは結果となって現れた。出世し昇給し、不自由のない生活が出来ている。このところ休みもろくに取れていないが、忙しさはのび太に自分が変わったことを実感させ、それがまたのび太を仕事へと駆り立てるのであった。しかしながら、ただでさえ忙しい中で会議の前倒しはきつい。十分な結果を出せるのか少々不安でもある。
「まあでも、良かったじゃないですか、前倒しになって」
ふいに部下がそう言って笑った。
「だって最初の予定だと、記念日に重なっちゃうでしょう」
そうか、とのび太はカレンダーを見た。今月末には二人の10回目の結婚記念日があるのだった。
「余計な気を使う暇があるなら仕事を進めろ、時間がないんだから」
部下をデスクに追いやり、のび太は窓の外を眺めた。仕事にばかり追われて、もうずっと静香ときちんと話をしていない。静香は今の状況をどう思っているのだろう。
「野比さん、この書類なんですが」
手を止めていたのび太のもとにまた別の部下がやってくる。とにかく今は仕事に専念しよう。のび太は再びデスクに向かった。
「おめでとうございまーす!」
威勢の良い声と共に鐘が鳴り響く商店街の福引コーナー。静香は目の前に落ちた玉を見つめ、息を呑んだ。
「一等、日帰り温泉旅行ペアチケットご当選です」
祝福と落胆の混じったざわめきが静香を取り巻く。買い物でポイントが貯まったので帰りに立ち寄った福引。洗剤くらい当たったら嬉しいけれど、と軽い気持ちでレバーを回した静香の前に落ちたのは、一等の赤い玉だった。思いがけぬ幸運に驚きながらチケットを受け取る静香に、同じマンションの主婦が声を掛けた。
「野比さんおめでとう。旦那さんも喜ぶわね」
ありがとう、と静香は笑った。そうだ、温泉ならのび太も仕事の疲れを癒せるだろう。会議が終われば一度くらい日曜日に休みが取れるだろうし、ちょうど月末の日曜は結婚記念日と重なる。冷めている家庭も、温泉につかっておいしいものを食べてゆっくり話す時間を取れば、また昔のように上手くいくかもしれない。静香は嬉しくなって、弾むような気持ちで家路についた。
「行けるかどうかわからないな」
しかし、帰宅したのび太は気のない反応だった。
「どうして? 月末なら会議は終わっているんでしょう? 一日くらい休みは取れるはずじゃない!」
「次の仕事があるんだ」
「そんな…だって、今月最後の日曜日は…」
静香は声を詰まらせた。悲しみと悔しさで涙が出そうだった。
「…わかったわ。無理言ってごめんなさい」
のび太に涙を見られるのは癪だった。それだけ言うと、静香は寝室に向かった。ドアを閉じた途端堪えていたものが溢れる。確かに今の生活があるのはのび太が仕事に打ち込んで出世したおかげだ。だけど、そこまで働く必要があるのだろうか。家庭の温度も関係なく大切な記念日も忘れて働く必要が、一体どこにあるのだろうか。暗い寝室でドアにもたれ、静香の涙は止まらなかった。
|